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ガンガーの存在

今朝、BBCを見ていたらガンガーを人とみなす?といったような記事を見た。よく読んでみたら、ずっと争っていたガンガーを汚染から守るための裁判で、ガンジス川とヤムナム川を法的に人として扱うということを裁判所が伝えたらしい。CNNの日本語記事を読んだら、「生きている存在」との判断が下されたと書いてあった。

これらの河川は「存在そのものを失い」つつあり、その「保全には非常手段を取る」必要があるということが、その根拠と書いてあった。

川に人の地位が認められたのは、ニュージーランドのワンガヌイ川以来二例目という。ワンガヌイ川には「健康」を守るため、代理人が2人選任され、インドの判決も同様に、当局者3人を川の「公的な後見人」に指名したという。

ガンガーのことをいえば、とてもインドらしい判断だと思った。ガンガーにサンダルを履いて入ろうとしたら、Noと言われたことがある。「Ganga is mother」というようなことを言われた。母なる川、神聖な川。「人」という扱いは、少し格落ちする気がしないでもないが、人間同様、健康じゃなくなることによって、その存在が危ぶまれるという話はとても効果があることのように思える。

一方で、生活に密着した川であり、死体を流し、体を洗い、洗濯をし、大雨が降れば下水が整っていないバナラシ中で溢れた水が流れ込むガンガー。「街そのものが水洗トイレだったのか!」と、ガンガーに向かって流れる水を見て思ったが、こういったことを防ぐような動きになったら、それはそれでガンガーじゃなくなる気もしてくる。人の生活を支え、密着した川であるからこそ、川に対する人々の想いが深まっているのだから。

また、後見人という存在も少し気がかりだ。ガンガーそのもが意志を持たない中、誰かが人としてのガンガーを慮って、自分の思う都市や環境をつくるための代弁をするかもしれない。

ガンガーをガンガーたらしめるものが何であるのか。どうあれば、ガンガーであり続けるのか。課題は山積のような気がする。

ガンガーだけを守るのでは、ガンガーの本質はずれていく可能性がある。かつては同様の生活をしていただろうが、ここまで汚染はしていなかった。流れこむものに、化学的なものが多くなったからなのだろうか。人が増えたからなのだろうか。

何も考えずに、全部ガンガーに流していたらこんなことになっちゃったということなのだろうけれど、その汚染を食い止めるためには、多額の整備が必要だろう。その整備によって、人々の生活がかわっても、人は今と同じように沐浴をするだろうか。

ちょっと難しい。どこかを囲ってキレイにするわけにもいかないし、ガンガーのどこかに浄化装置をつければいいというわけでもない気がする。思慮なく、すべてを流している人たちを罰し、下水を流すことをやめればよいのだろうか。すべてを飲み込むガンガーなのに?

でも、すべてを飲み込み、聖なるものと化す川として存在させることは無理なんだろうな。あー、だから「人」なのか。それが、この裁判の根拠なのか。